次世代を担うリーダーを育てなければ──。
この言葉は、経営層から人事部門に与えられるミッションとして、もはや多くの企業にとって「あたり前」になりつつあります。
サクセッションプランの導入、タレントマネジメントシステムの整備、選抜型リーダーシップ育成プログラムの展開など、「環境を整える」ための努力は、各社で確実に積み重ねられてきたはずです。
にもかかわらず、現場で起きているのは、次のような声ではないでしょうか。
「選抜したはずの人材が、想定よりも伸びない」
「研修は受けているが、行動変容が見えない」
「上層部と育成対象者の間で、リーダー像が食い違っている」
そして最も根深いのは、「何かが足りない気がするが、それが何なのかがわからない」という漠然とした違和感です。
この違和感は、決して貴社だけの問題ではありません。リードクリエイトもこれまで多くの企業と対話する中で、同じような悩みや手応えのなさに直面してきました。そして確信したのは、「どのような施策を打つか」ではなく、「育成とは何なのか」という前提そのものを問い直す必要があるということです。
果たして、経営人材をはじめとする次世代リーダーとはどのような存在を指すのでしょうか。
経営を担うとは、どのような資質や覚悟が求められる営みなのでしょうか。
整えられた育成環境の中で「育てられるべき存在」として選ばれた人材は、本当に経営を任せられる人材になりうるのでしょうか。
このコラムでは、次世代リーダーの一般的な前提に、あえて疑問を投げかけます。
その上で、整備や制度ではなく「覚悟」「気概」「矛盾との対峙」といった、本質的な育成の原点に立ち返りながら、貴社にとっての「真に託すべき人材」とは誰なのかを、共に考えていきたいと思います。
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多くの企業が、次世代リーダー育成においてまず着手するのは「環境整備」です。制度を整え、育成機会を提供し、安心してチャレンジできる場をつくる──それ自体は間違いではありません。
しかし、それが行き過ぎると、リーダーとして最も必要な「自己決定」「自己責任」の体験を奪ってしまいます。守られた環境の中で、失敗が起きにくく、傷つくことも少ない状況では、逆風に立ち向かう胆力や意思決定の覚悟は育ちません。
そもそも経営を担う人材とは、環境のせいにできない存在であるべきです。「整えられた環境の中で育つリーダー」ではなく、「整っていない状況を変えるリーダー」を育てることが、本質的な育成の目的ではないでしょうか。
昨今の育成プログラムは、「学びやすさ」や「成果の見えやすさ」が重視されすぎているように感じます。確かに、ワークショップやオンライン研修など、効率的な学習手段は増えていますが、次世代リーダーに必要な「変容」には、もっと強い揺さぶりと自己内省が必要です。
本気で自分自身と向き合い、悔しさや葛藤、矛盾を抱えながらも前に進む体験がなければ、価値観の転換や判断軸の獲得には至りません。
用意された正解を学ぶのではなく、自ら問いを立て、迷いながらも進む姿勢こそが、次世代リーダーに求められる素養です。予定調和的なプログラムでは、その境地に辿り着くことは困難なのです。
育成とは「支援」ではなく「挑戦の場の設計」であり、本人に自らを試す機会を与える行為です。
ところが実際には、人事や上司が過保護になりすぎているケースが少なくありません。「失敗させたくない」「自信をなくしてほしくない」という善意が、かえって成長の芽を摘んでしまっているのです。
また、育成計画そのものが、リスク回避的なキャリアの階段にすり替わっていることも見受けられます。本来、経営人材の育成においては、「道なき道を拓く経験」をどう設計するかが問われるはずです。組織としても、挑戦を許容し、信頼して任せる覚悟が必要です。「育てる」とは、「守ること」ではなく「託すこと」なのです。
どんなに優れた育成プログラムであっても、「誰を育てるか」という選抜が曖昧であれば、成果にはつながりません。現場の反発を恐れて波風立てない選抜をする、年次やポジションに配慮して“順番”で選ぶ──そうした人選は、育成の起点を曇らせてしまいます。
経営人材として期待されている次世代リーダーとは、ある意味で組織の希望を託す存在です。そこに経営層の本気の意思があるかどうかは、対象者にも伝わります。「なぜ自分が選ばれたのか」という納得感がなければ、成長意欲も覚悟も生まれません。
選抜とは経営と人事における覚悟の表明であり、期待の投資です。そこに本気さがなければ、対象者に伝播することはありません。
▶【関連動画】経営人材が育つ会社、育たない会社~次世代リーダーの輩出に向けて経営と人事が「まず着手すべきこと」
多くの企業において、「育成環境を整える」と言えば、研修制度の拡充や、OJTの強化、キャリア支援体制の整備など、制度的・施策的な“支援の枠組み”が思い浮かびます。
もちろん、それらは育成を促す土壌として重要な機能を果たします。しかし、制度や支援だけを“育成環境”と呼ぶことには、ある種のミスリードが潜んでいます。
リーダー育成の本質は、情報を与えることでも、道筋を整備することでもなく、「自ら考え、判断し、行動する余白と必然性を与えること」にあります。整えすぎた環境は、むしろその“余白”を奪い、自己変容の起点となる葛藤や試練から人を遠ざけてしまうのです。
心理的安全の重要性は、リーダー育成の現場でも広く認識されつつあります。しかし、ここにも一つの落とし穴があります。
それは、「安全=快適」だと誤解してしまうこと。経営人材として期待される次世代リーダーに必要なのは、“何を言っても許される”安心感ではなく、“自分の言動が組織に影響を及ぼす”という緊張感を持った上で、なお挑戦できる安全性です。
つまり、「無風で快適な場」ではなく、「向かい風の中でも信念を貫ける場」こそが、リーダーにとっての本質的な安全環境です。育成の現場では、この“緊張感ある安全”をどう設計するかが極めて重要です。対話が促され、問いが立ち、沈黙すら意味を持つ──そうした場こそが、本当の意味で人を変えるのです。
環境という言葉は、物理的なものや制度的なものに限定されがちですが、実は最も大きな“環境要因”は「人の目」そのものです。誰を選ぶのか。どのように評価するのか。そのプロセスが、次世代リーダー候補者にとっての育成環境を決定付けます。
もし、選抜が年功やバランス配慮の産物であれば、それは挑戦者の白けを生みます。
一方で、「この人を本気で育てたい」「あなたに託したい」という明確な意図が人選に宿っていれば、それは対象者にとって圧倒的なエネルギーとなります。
評価も同様です。抽象的なフィードバックや“甘すぎる期待”ではなく、時に苦しいほどの厳しい示唆が、自己変革のトリガーとなるのです。つまり、育成とは制度の話ではなく、目線とメッセージの話でもあるのです。
経営人材の育成において最も本質的な環境とは、「自己と向き合わざるを得ない状況」であると考えます。そこでは、明確な正解が存在せず、自らの価値観や信念、経験に基づいて意思決定を下さなければなりません。
複雑な利害や時間的制約の中で判断を迫られることで、人は初めて「自分は何を大切にしているのか」「どうありたいのか」といった根源的な問いと対峙することになります。
こうした機会は、知識の習得や整えられた研修環境だけでは得られません。むしろ、あえて揺らぎや葛藤が生じる場に身を置くことで、自己の内面が揺さぶられ、自分自身の意思決定スタイルや信念の強さを問い直すことができるのです。経営を担う人材には、このような対峙の経験こそが不可欠だといえるでしょう。
次世代リーダーを育てるとは、単に研修の機会を与えることではありません。育成の真のスタートは、「誰を選ぶか」という決断そのものにあります。
人は、自分が組織から選ばれたことを自覚した瞬間、意識が変わります。「自分は期待されている」「自分がこの組織の未来を担うのかもしれない」という自負が、内発的な成長意欲を引き出すのです。
これは、候補者の資質に依存するものではなく、「選抜」という行為自体が持つ社会的・心理的な力に起因します。人は、注目されたときにこそ、自らの役割を再定義しようとします。だからこそ、育成は制度が始まる前から、すでに始まっているのです。
一方で、選抜における最大の落とし穴は、「なぜその人が選ばれたのか」が周囲に見えないことです。人事制度がどれだけ整っていても、選考の背景に納得感がなければ、現場には違和感と猜疑心が残ります。
「上層部の鶴の一声で決まったらしい」「なんとなく、あの人が推されてる」──そんな声が社員の間に広がると、組織は静かに冷めていきます。
選ばれる人以上に、「選ばれなかった人たち」がどのように納得するか。この視点を軽視すれば、いくら素晴らしい育成プログラムを用意しても、その土台は脆弱なものとなります。選抜における納得感とは、選考の透明性だけでなく、一貫性のある人材観と、そこに向けた誠実な説明責任によって担保されるものです。
最近では、リーダー育成における“環境整備”の重要性が盛んに語られています。成長機会の提供、学びやすい風土づくり、心理的安全性──それらは確かに意味のある投資です。
しかし、こと経営人材を育てるという観点に立ったとき、「育てるための環境」以上に、「挑戦に報いる構造」が整っているかが問われます。
挑戦は、必ずしも報われるとは限りません。しかし、努力や意思決定に対して、組織がきちんと向き合い、正当に評価しようとする姿勢があるかどうか。この「報いの構造」がなければ、人は本気でリスクを取りません。
次世代リーダー候補者が育つ組織とは、挑戦が挑戦として成り立つ組織であり、頑張った先に見える「納得の未来」が存在する組織です。
人材を見極め、選び抜くこと。それは決して過去の実績だけを評価する行為ではありません。むしろ、未来への可能性に賭ける「意志の表明」とも言えます。
誰かを指名するという行為は、同時にその人の成長に責任を持つという覚悟を伴います。そして、その覚悟を持って選ばれた人材には、自然と自覚と期待が芽生えます。
ここで重要なのは、「選んだから育てる」ではなく、「選んだ時点で育成が始まっている」という理解です。人は、他者の信頼に応えようとしたとき、自らを変える力を発揮します。「あなたに期待している」――その一言の重みこそが、育成の起点になるのです。
次世代リーダー育成について語られる場では、しばしば「他社の成功事例」が引き合いに出されます。あの企業はこうして幹部候補を育てた、この企業では選抜研修が功を奏した──確かに参考にはなるかもしれません。しかし、そこに「答え」を求めすぎる姿勢には、危うさがあります。
なぜなら、経営人材の育成は再現可能なプロセスではないからです。個人の資質や内面、置かれた環境や周囲との関係性、時流やタイミングといった要素が複雑に絡み合い、静かに、あるいは劇的に「磨かれていく」もの。それは、他社の研修プログラムを模倣すれば同じ成果が得られるというような、単純な因果関係では語れません。
現実には、同じ研修を受けたとしても、そこから大きく飛躍する人と、何も残らない人がいます。違いを生むのは、本人の姿勢であり、その人が置かれた文脈です。
育成とは、制度や方法論の問題ではなく、人の内面と環境との相互作用によって生まれる化学変化なのです。
ここで立ち返りたいのは、「経営人材は育てることができるのか?」という問いです。育成施策の整備や選抜研修の体系化など、形式として“育成”を支援する仕組みは構築できます。しかし、それはあくまで「磨かれる可能性を拓く」ための土壌づくりにすぎません。
本質的にリーダーとは、「本人の意思によって、自らを鍛えようとする者」でなければなりません。教えられたから動く、与えられたから考える──そんな受動的な姿勢では、真のリーダーシップは育ちません。
必要なのは、自ら挑戦を選び取り、自己と対峙し、矛盾や苦悩を通して自分を再構成していく環境です。その環境があってこそ、人は磨かれる。
だからこそ、人事がやるべきは「育てること」ではなく、「磨かれる土台を整えること」なのです。どのような体験が人を変えるか、その変化を引き起こすにはどのような対話や問いが必要か──育成の主体は本人であるという前提に立ったとき、制度ではなく場の質が問われてきます。
育成に正解はありません。けれども、「やってはいけないこと」は確かにあります。それは、本人の意思を置き去りにした育成です。
「リーダーにしたいから育てる」「将来のためにこの経験を積ませる」──そのような人事主導の育成は、当の本人にとっては違和感や負荷でしかなく、むしろ反発や冷めた反応を引き起こします。
また、「育成に失敗しないために」と、安全圏で計画通りに整えられた経験ばかりを与えるのも危険です。挑戦機会の本質は、「失敗してもよい」と言われながら、「失敗できない」と本人が感じるような真剣勝負の場にあるのです。
真の育成は、計画の外側にある感情の揺れ動きの中からしか生まれません。
加えて、人選の段階で納得感のない指名が行われると、その後の育成も機能しません。「なぜあの人が選ばれたのか」が社内で共有されていなければ、挑戦者も周囲も白ける。育成は人選の瞬間から始まっています。期待されているというメッセージと、それに報いる構造がなければ、人は本気になれないのです。
リーダー候補者にとって、自分が次世代を担う存在として何を期待されているのかを明確に認識する機会は、意外にも少ないものです。
多くの場合、「選ばれた」ことは伝えられても、具体的に「何を期待されているのか」が本人の実感として腹落ちしていないことが少なくありません。
そのまま従来通りの研修に送り出されたとしても、形式的な知識の習得に終始してしまい、本質的な変化には繋がらない──そんなケースが後を絶ちません。
そこで重要になるのが、「期待」と「体験」を同時に届けることです。自身に託された役割の重さと、その役割を果たすにあたって直面する困難や矛盾を、リアルな体験を通して理解することが、次世代リーダーの第一歩となります。
その入り口として機能するのが、経営シミュレーションを中心に設計されたアセスメントプログラムです。
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特に、経営層を想定したシミュレーションでは、環境設定そのものが極めて複雑で、変動的で、不透明かつ正解のない状況として設計されています。
これは、まさに現実の経営そのもの。判断材料は不十分、関係者の利害は複雑、決断のタイミングには制約がある──そうした状況の中で、リーダー候補者は「正解」ではなく「自らの意思」に基づいた選択を迫られるのです。
このような状況に置かれたとき、人は必ず内面で揺らぎます。迷い、不安、怒り、焦り。そうした感情に向き合いながら、なおも決断を下し、言葉にし、行動に移していくというプロセスにこそ、その人らしさや、リーダーとしての核が表れるのです。
シミュレーションによって引き出された行動は、単なる“パフォーマンス”ではありません。内面の葛藤の末に生まれた、等身大の決断と姿勢なのです。
その行動を振り返り、自分自身で意味づけるプロセスは、まさに「自己を知る」起点となります。
良質なシミュレーションは、何かを教える場ではありません。「この先、自分は何を学ばねばならないか」に気づくための、成長のスタートラインです。
その気づきは、外から与えられるものではなく、内面から立ち上がってくるもの。実際に自分の判断や言動が、対人関係や組織全体にどのような影響を与えるのかを“体感”し、自分自身の「未熟さ」や「強み」に正面から向き合う──このプロセスを経ることで、人は初めて本気で学び始める準備が整うのです。
この意味において、アセスメント型のシミュレーションは、選抜の手段であると同時に、育成のスタート地点でもあるのです。「選ばれた意味」が体験を通じて実感され、「これから何を磨くべきか」が自覚される。この一貫性が、育成施策の効果性を何倍にも高める要因となります。
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次世代リーダー育成のゴールは、単に役職を与えることではなく、将来の経営を担う人材を見極め、育て上げることです。そこでは、知識やスキルといった表層的な能力よりも、その人物の本質、すなわち資質が問われます。
コーポレートガバナンス・コードにも、「CEOの選解任は最も重要な戦略的意思決定であり、資質を備えた人物を選任すべき」と明記されています。
これは、経営の意思決定が“正解のない領域”であることを示唆しています。前例のない状況で、自己の全人格をもって決断し、結果に対する責任を全て引き受ける覚悟がなければ、真の経営は担えないのです。
リードクリエイトは、経営人材に求められる資質を4層8資質の項目に整理しています。これは表面的な能力ではなく、人格的・構造的な要素として整理したものです。
これら8つの資質は、互いに独立しているのではなく、階層的に連関しながら人物の器を形成する構造となっています。
つまり、表層的な影響力だけでは足りず、その根底にある内的な核が整ってこそ、本物の経営人材としての完成度に近づくのです。
経営の本質は、究極的には意思決定の連続です。売上や利益といった成果は、組織や市場の変数に左右される側面もありますが、リーダーの意思決定が常にその起点となっています。
そして、意思決定の質とは、論理やデータだけでは測れません。むしろ、どれだけ曖昧な状況においても、自らの信念と責任感で判断を下す「人格的な力」が問われます。
優れた経営者は、困難な状況に追い込まれたときほど、その人間性が表出します。部下を守るか、リスクを取るか、どの責任を引き受けるか。全てに「正解」がない中で、何を大事にするかという価値観の総体こそが、経営者としての資質を決定付けます。
だからこそ、過去の業績や知識量ではなく、「その人はどう生きようとしているか」を見極めることが、選抜と育成の中核に据えられるべきなのです。
これらの資質は、「ある・なし」で二分できるものではありません。人によって強弱があり、また、経験や内省を通じて育まれるものでもあります。
したがって、リーダー選抜時には、現時点の表れ方だけでなく、「将来的に強化可能な土壌があるか」という見立てが重要になります。
また、育成の観点から見れば、これらの資質をいかに経験や対話によって引き出し、磨いていくかがカギとなります。特に、自分自身の意思や価値観を問われるような経験、すなわち「自己との対峙」を通じた気づきこそが、資質の深層にある芽を覚醒させるのです。
資質は見えにくく、測りにくい領域ではありますが、だからこそ、定義し、観察し、問い続けることが必要です。
経営人材を育てるとは、技術や知識を与えることではなく、「人としての器を広げる」ことに他なりません。その前提に立った選抜と育成の在り方こそが、これからの企業の競争力を決定付けるのです。
次世代リーダー育成において、最も注意すべきなのは「過保護な環境を整えすぎないこと」かもしれません。
特に経営層を巻き込んだ施策であればあるほど、「離脱させてはいけない」「失敗させてはいけない」という想いが先行し、結果として整いすぎた環境、言い換えれば“ぬるま湯”が用意されてしまうことがあります。
しかし、経営者としての本質的な成長は、不確実性の中で自ら決断し、その責任を引き受ける経験によってしか得られません。そこには痛みも迷いも伴います。だからこそ、「育てよう」とするのではなく、「育つ機会」をどう設計するかにこそ、本質があります。
人材育成は決して人事や経営の“業務”ではありません。ましてや、やり方やノウハウで解決できる単純な話でもありません。
本当に大切なのは、候補者自身が「自分の成長に本気になること」。そのためには、「なぜ自分が選ばれたのか」という人選の期待と、「これから何を期待されているのか」という役割の重みを、体験的に納得する場が必要です。
そこで得られる“腑に落ちる感覚”は、その後の全ての育成施策に対する当事者意識を変えます。受け身ではなく、自ら課題を見つけ、乗り越えようとする姿勢が芽生えるのです。
もし、いま実施している次世代リーダー施策に、どこかしっくりこない、成果につながっていないという感覚があるならば、それはやり方の問題ではなく、「育成の起点」に原因があるのかもしれません。
手法や内容を見直す前に、まずは「どのような状態からスタートすべきか」という原点に立ち返ってみてください。
私たちは、人事の皆さんのその悩みに、共に伴走し、応援したいと願っています。
次世代リーダーの可能性を信じて、ぜひその第一歩となる“起点”の再構築に、勇気を持って取り組んでみてください。