「インバスケット」という言葉は、人事に関わる人であれば一度は耳にしたことがある用語だと思われます。一方で、その構造や活用範囲については曖昧な理解であることも多く、場合によっては過去に自社の研修や登用試験等で導入したものの、今一つ使えないという印象を持っている方も少なくないと思います。
本コラムでは、インバスケットに対する誤解の解消を含めて、改めてその可能性や活用範囲について考察するとともに、各社の人事担当者の方々が、数多ある「インバスケット」の目利き力を養うための論点を提示したいと思います。
インバスケットとは、管理職の机の上の未決箱の中に入っている各種書類に対し、管理職になったつもりで、ある限られた時間内に処理することが求められるシミュレーションです。昔のような紙で作成された様々な書類上のアナログなものから、メールや各種コミュニケーションアプリ等による意思決定プロセス上の変化が進む中において、その本質を表現するならば、「未解決の事案に対する管理職としての意思決定が問われる演習」と言い換えられます。ヒト・モノ・カネ・情報等に関わる多岐に渡る複数の事案(10~20の未解決事案)が山積みとなっている状況の中で、管理職が直面しがちな現実的かつ日常的な意思決定が盛り込まれた内容で構成されています。
インバスケットは、受講者が取り組む判断過程から、管理職に求められる能力を引き出すことを目的に開発されています。置かれた状況を踏まえての指示や連絡という行動(言動)を誘発することによって、その内容や傾向から能力を測定することができます。そのため、多くの企業で管理職の初期教育や昇進昇格時の試験の一つとして導入される教育・評価ツールとして広く認知されています。
様々なタイプのインバスケットが開発される中、インバスケットそのものへの誤解が生じているように感じています。インバスケットがインバスケットであるための絶対的な基準のようはものは存在しないため、どれが正解かという議論は不毛ですが、「管理職としての物事の優先順位づけや、具体的な指示の仕方」というハウツーを学ぶものという狭義のものではありません。特に、アセスメントセンターの文脈で語られるインバスケットとは、能力を評価することが目的である以上、管理職としての将来のパフォーマンス予測を伴う評価ツールとしての信頼性が確保できていなくてはなりません。
また、インバスケットを選定するにあたり、基本的には自社の業種・業態とは異なる業界が設定されたものを選択して進めることが主流です。これは、能力を引き出すために「敢えて経験則が通用しない状況を作っている」ことが理由です。昨今の管理職が置かれているリアルな状況は、まさに前例のない意思決定の連続です。この先はさらに不透明感は増していくと推察されます。そんな中でマネジメントを行っていくためには、「知っている状況での妥当な判断力」ではなく、未経験領域でどのような判断を下すかという思考プロセスを評価することが鍵となります。逆説的に言えば、経験則(知っている)で回答できてしまうものであっては、思考プロセスを経ずに回答に至るため、評価の信頼性が高まらないと言えます。
さらに、多くの伝統的なインバスケットは、設定上の制約として「誰とも連絡が取れない状況」になっています。これも、その場の自身の思考プロセスを引き出す設定として意図的に作られているものであり、「わからない中で、わからないなりに判断・決断すること」によって、未知な状況下での意思決定能力が引き出せるということです。実際のビジネスにおいても、すべての情報が揃うという状況の方が稀です。言い換えれば、すべての情報が揃った段階であればメンバーでも判断できる可能性が高く、管理職の介在価値はありません。よくわからない中での意思決定であることが重要であるという考え方です。
上記のようなインバスケットが持つ特有の設定や制約は、昨今のビジネス環境とのギャップという側面では没入感の観点で課題になりつつあります。一方で、「ある出来事に対する判断は、組織のリーダーには常に求めれるもの」であり、表面的なカタチは変わっていきながらも、その本質は変わらないものとして活用できるツールと言えます。
論を待たず、昨今のビジネスの多くは肉体労働から思考活動へとシフトしています。特に、組織を預かる管理職などの組織リーダーにおいては、思考活動のパフォーマンスが成果に与える影響が相対的に大きくなっています。
リーダーの判断が誤っていれば、組織の向かう先も誤ることとなり、例えメンバーの力があったとしても無駄になってしまいます。管理職に求められる判断の高度化や、専門領域の拡大などに鑑み、管理職登用の前には一定の思考能力・判断能力が伴っているかを評価する企業が増えています。
また、ある状況下のシミュレーションへの取り組みから管理職としての再現性の高い能力を測定するためには、3つの観点を捉える必要があります。
ここまで見てきたように、インバスケットへの取り組みによって、受講者の思考プロセスを診断できるかがポイントになります。同時に、「ある事案に何を書いたら正解」というものではないことが理解できると思われます。状況をどのように捉え、どのような思考過程を経て、何を指示・表現したのかを測定することで、思考スタイルの傾向が高い精度で判定できるようになります。その結果、管理職という未知の領域で、どのような思考を辿るかの予測が一定水準で担保できるため、管理職登用時の試験としてインバスケットが活用されているという背景があるのです。
本コラムにおいて、インバスケットの評価方法の全てを開示することはできませんが、どのような観点で評価をしているのかの一例を紹介したいと思います。
最初は、全体傾向から言える特性の把握です。処理量や処理の順番、指示の書きっぷりや連絡先など、全事案に対する回答傾向から言える特徴です。これらの情報から、意思決定における関心の向かい先や優先順位という大まかなプロフィールに加え、思考スピードなどの領域に対する情報を得ることができます。
次は個別事案への対応から言える特性の把握です。指示の内容や進め方、関係者へのアプローチなど、具体的な処理内容から言える特徴です。ただし、インバスケットは「正解を求めるテストではない」ため、書いてある内容そのものは「記号」という捉え方をします。その要約作業を進めることで、各事案に対して何を為そうとしたのかという思考の起点や想定ゴールが判別できたり、記述内容から状況の捉え方、多面性や多角性、推論や要点把握などの特性や水準に対する情報を得ることができたりします。
さらには関連性の把握などから言える特性の把握です。直接的に表記しているものもあれば、間接的に表現されているものを含めて、個々の事案だけではなく、相互の繋がりや組織全体の問題の捉え方など、大局的な視点や情報把握の幅などの能力水準に対する情報を得ることができます。
これらの情報を統合し、組織の管理職に求められる能力項目の定義に沿って、その傾向と水準をスコアリングしていきます。
ただし、インバスケット演習でカバーできる範囲は、「管理職の思考活動領域」の中でも、日常の意思決定場面での一側面から言えることに限定されるという点は留意しておくべきです。方針を立案したり、議論場面のような流動的な状況下で解を導いたりするなど、管理職が遭遇するすべての思考活動領域での発揮能力が測定できている訳ではありません。管理職登用試験の判断を行う際には、インバスケットだけではなく、様々な状況が設定された複合的な場面を組み合わせて評価しなければなりません。
さらには、管理職にはメンバー育成やチームマネジメントなど、「対人活動領域」も重要であり、管理職の適性を見極めるためには思考・対人両面の能力を備えておかなければなりません。昇進昇格の判定材料としてインバスケットを用いる場合は、面談演習などの他のシミュレーションとの組み合わせによって複合的に評価するアセスメント・センターで実施することを推奨しています。